セカイの中心で叫ばれるもの

世界の中心で、愛をさけぶ

世界の中心で、愛をさけぶ

http://d.hatena.ne.jp/paraselene/20060205

私は、「世界の中心で、愛を叫ぶ」のかの有名なシーンが嫌いです。
「たすけてください」と叫ぶ前に、自分でなんとかしろよ、と思ってしまうのです。

無論、彼が叫んでいるのはなにも空港での出来事に戸惑って叫んでいるのではなく、逃れられない運命から、助けてくれと叫んでいるわけなのですが。エウレカセブンを見ていて感じたことと、世界の中心で、愛を叫ぶで感じたこととが非常に似ていたので、並べてみました。

人格形成が不完全なクールビューティーとして描かれたヒロイン。不器用なその姿は、そのまま脚本を書いた本人の姿にだぶります。ヒロインは世界にとって特別で、みんなから敬遠されつつもなにくれと面倒を見てもらえるのですが、これも脚本家のダメな自分でも、生きていていいのだ、人に甘えていいのだという言い訳に見えます。

主人公も戦場で戦うことが、殺人であることに物語の中盤で気づき、苦悩します。それすらも「甘い」と思うのですが、きわめつけの甘さは、苦悩し家出をした主人公を暖かく迎えてくれる「家」をストーリー上に用意したこと。
唯一の救いは、その「家」の甘さにイヤミがなかったことです(私も物語の中で一番そのシーンが好きです)が、家出中の主人公はコンビニと自宅を往復するひきこもりそのままの姿ですし、そこから救い出してくれるのが暖かくてやさしくて、たくましい大きな手ははっきり言って、ひきこもり青年の妄想でしかありえないのです。

その「家」から旅立ち、成長を遂げる主人公。するとこんどはクールだったはずのヒロインがボロを出していきます。それを励まし、包み込む主人公。

自己を二つに分け、性別を与え、お互いに慰めあう姿はホモセクシャルよりも醜悪で嫌悪感を抱かせるものです。なんとなれば、ホモセクシャルは性別は同じでも人間としては別個。生理的な嫌悪を除けば、それほど不自然な感じはありません。しかし、エウレカセブンでは、主人公とヒロインは同じ人間の別の側面をそれぞれ受け持つに過ぎないキャラクター同志。いわばマスターベーションなのです。マスターベーションという言葉が悪ければ、自己憐憫と言い換えてもいい。

エウレカセブンはいわゆる「セカイ系」と呼ばれるアニメーションであるようです。物語の中には主人公以外のあらゆる登場人物が存在しないストーリー。ヒロインですら、主人公のコピーや創造物(妄想)でしかないのです。
そして、主人公は、ヒロインは、ひたすら「救い」を求め、そして与えられています。

世界の真ん中に自分しかいない。
そしてひたすら救いを求めている。

「世界の中心で、愛を叫ぶ」も、立派なセカイ系の物語のように思います。
そして、あれだけのブームになるということは、日本人の多くがそれに共感したということでもある。
「たすけてください」ですか。
そんなこと叫んだ奴には小一時間説教したい気分ですが、面白い世の中になっているようです。