教育雑感

甥っ子の小学校での図工展を鑑賞。

  • 1年生にしては妙にうまい絵と妙に旨い紙粘土の肖像。そしてどれも同じの構図と肖像。ものすごく薄気味悪かった。
  • 4年生の鏡に映った自分を描く自画像と、お面も同様。
  • ほかの学年の作品は、個性があったり、高学年らしい技術の向上が見られたりでなかなか楽しめた。

私が小学生2年生のとき、画用紙を箱型にして電車かバスかをつくるという工作を学校でやったことがあったのだが、自分のやりたいようにはまったくやらせてもらえずものすごくイヤな思いをしたことがあった。いわく、小さく作りすぎるな。いわく、銀色の折り紙を張るな。いわく、セロテープを使うな。

糊代を大きめに取ったから小さくなったのであり、銀色の折り紙が張りたかったのは銀色のシャーシの電車を作りたかったからであり、セロテープを使いたかったのはのりしろをとらなければ大きく作れると考えたからであった。

そのときのことを思い出させてくれる一年生と四年生の作品群であった。
下手なのは当たり前なのだ。小学生の技量などたかがしれている。変に高度でも気持ち悪いだけだ。だが、教師というものは子供の意欲を奪ってまでなにかを創作させてはいけないのではないのか。そして、そうまでしたって全体の芸術性があがるわけではない。一年生と四年生の展示のしかたはもうどうしようもないほどセンスがなかった。


さて、その後の昼下がり。
甥っ子の学習塾(ぶっちゃけて書いてしまうと公文式)の宿題を見てやっていた。二桁の数字と一桁の数字の掛け算、まあなんとか見てやれるレベル。
おっとり刀で甥っ子はその問題を解いてゆくのだが、補助数字を書かないのだ。たとえば、46かける7なら

 46
4

            • -

322

と、このように、6かける7をといて十の位に4と小さく書き、1の位に2と書く。
ついで40かける7をとき、さきほどの4と足し算をする、のが初歩的な解法なのだが、その「4」を書かない。
なぜ書かないのかと問えば、甥っ子いわく


「先生が書くなって」


その先生に言いたい。小一時間といわず、泣いて手をついて謝るまで殴るのをやめない問い詰めたい。思考過程を書くのを阻害してなにが教育か。おのればどんな教育をうけて教師ヅラしているんだと問い詰めたい。
「そんな先生の言うことなんて今後一切聞かなくていい」と罪のない甥っ子相手に力説してしまったが、さすがに公文式全体でそんな馬鹿げた指導をしているとは思えない(私も公文式を子供のころやっていた。そんなことは一度も教わらなかった)ので、ごくごく一部のドアホウなアルバイトがそんなことをのたまっているのだと思うが、そりゃ長じれば思考過程を書けず、勉強のできない子が育つのもわかるわ。間違った教わりかたしているのだから。

ゆとり教育とかそれ以前の問題で、教育の質が低下しているのではないかと非常に恐ろしさを感じた一日だった。