今日は石橋湛山内閣発足の日だそうだ

ウィキペディアより、石橋湛山 - Wikipedia

行政面では、中央集権・画一主義・官僚主義との訣別を主張した。

日中戦争が勃発してから敗戦に至るまで、『東洋経済新報』誌上にて、長期戦化を戒める論陣を張った。署名記事を書くことが困難だった多くのリベラリストたち(例:清沢洌)にも、同誌は匿名での論説の場を提供した。石橋や匿名執筆者の論調は、常に冷静な分析に基づいており、かつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する、といった物であったため、同誌は政府・内務省から常に廃刊の標的にされながらも、『改造』や『中央公論』のような、政府によって廃刊される事を免れた。

敗戦直後の1945年8月25日には、論説「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」で、科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るい、とする先見的な見解を述べた。

ジャーナリズムとはこういう人のみが手にすることの出来る、崇高な信念ではなかろうか。
それは、本人のみならず、その部下にまで浸透している。

石橋が首相を退陣した時に、その潔さを国民は高く評価したが、一人弁護士の正木ひろしだけは私的な感情で「公務(首相の地位)を放棄した」と厳しく批判した。その後、石橋の全集が作られる事になった時に、東洋経済新報社の編集者が全集に封入するコラムの執筆を依頼したのがその正木であった。かつて石橋の部下であったその編集者は、石橋への賛美一色のコラムを集めたのでは、一方の意見に偏らない言論の必要性を唱えて来た石橋の信念に反すると考えたのである。正木が書いた石橋への批判は、そのまま掲載される事になった。

先人は常に偉大なのかもしれないが、これほど気骨のあるジャーナリストが、今の日本にいるのだろうか。