人の親になる、ということの意味

(以下にも「うさぎドロップ」のネタばれを含む)

ブログ、特にはてなでは子供を出産することによるキャリアの寸断に恐怖したり、あるいは「欲情される」ことに過敏で、そういった対象にされることに激しく嫌悪感を感じる人を散見する。

もちろん、誰だって不特定多数から性的欲求の対象とされれば気味が悪い。
子供を生み育てるために仕事をセーブしたり、長期休暇しなければいけないとなると、仕事の現場からは都合が悪いのは、もっともだ。

だが、そういったいわば本能への反抗は少数派であることが多く、常に多数派からの批判に晒されている(と少なくとも当人は思う)。
こういった繁殖に関することについては、議論が尽きない。そして、それに傷ついている人も多い。一方で、それに傷ついたり傷つけられたりすることすら、繁殖(あるいは恋愛と言い換えてもいい)の一部分であるという考え方も存在する。


しかし、子供を生み育てること、あるいはそれをするために(性的に)魅力的にあろうとすることは、果たしてDNAに組み込まれた本能なのだろうか。

あまりに自然にわく感情であるがゆえに、自分の子供をいとおしいと思うこと、伴侶を得ようとすることが本能であり、ごくごく当たり前の摂動のように感じる向きが多い。だが、それも実は親から子に伝えられた後つけの情動ではないのだろうか。

うさぎドロップ」はあくまで多数派の視点で物語が進む。
それは、けして間違いではない。マンガを売る、という商業的観点から見れば。

そして、作者が本当に訴えかけたいのは、吐き気を催しながら主人公のまっとうぶりを描きながら、その「まっとうさ」からドロップアウトしてしまった人たちの存在がある、ということではないかと思うに至った。

でなければ、いかに物語のキャラクターとはいえ、自分を母親失格と言いどうしようもなく母親の責務をはたせずにうろたえている人間を、自分と同じ職業に据えるだろうか。


うさぎドロップ」は読んで面白いマンガである。是非多くの人にオススメしたい。
読み方は、人それぞれである。